寛永通宝、この名前に聞き覚えはありませんか。 江戸時代において流通を支えた庶民の間で一般的に流通していた古銭の一つです。1696年に銅の生産量が増えたことで、江戸芝・江戸浅草・近江坂本の3つの場所に銭座を設立したことで生産が始まりました。また、同じ規格品を大量生産するための工夫も施されていました。

持ち運びやすい寛永通宝

寛永通宝は江戸時代において、流通の場で普遍的に使用されていた通貨です。そのため、流通面で使いやすいように様々な工夫が施されています。その工夫の一つが、寛永通宝の真ん中に開けられた穴。この穴は、寛永通宝よりも以前に使われた永楽通宝にも同じような穴があけられています。これは持ち運びを容易にするための工夫です。ここに開けられた穴にひもを通すことによって、大量の硬貨を楽々と持ち運ぶことが可能です。流通の場で普通に使われていたために工夫が表れており、現代の貨幣、五円玉にも穴がみられるのは、この硬貨の名残からという話もあります。

寛永通宝の名前の由来

寛永通宝の由来をご存知でしょうか。寛永通宝が製造され流通の場に出現したのが、寛永という、江戸時代に存在していた元号からだったために、この名前が付けられています。寛永通宝以前にも、流通の場において、銅をはじめとした金属で製造された低価格の貨幣は存在していましたが、そのほとんどが海外からの輸入品でした。日本で作られたものも存在していましたが、日本製のものは、海外から輸入された通貨を模造したもので、品質が悪く鐚銭と呼ばれていたほどです。こうした流通の場において低品質の貨幣を減らすためにも、寛永通宝は製造されました。

寛永通宝誕生秘話

寛永通宝が広く流通することになったのは、時代の流れでもあります。徳川幕府が発行したこの通貨は、銅の流通と大きなかかわりが存在しています。黄金の国ジパングや石見銀山の名称からも、江戸時代のころまで日本は金や銀といった金属が豊富に産出する国だったのですが、その一方で銅の産出は芳しくありませんでした。寛永通宝の製造はそうした時代の移り変わりをも表しています。寛永通宝の流通の裏には、日本における銅の産出量の少なさを解消する目的があり、技術の進歩や銅山の開発などといったことが寛永通宝の誕生に隠されています。