ハイジュエリーの素材として、しなやかで明るい輝きをみせるプラチナ。今や欠かせない金属であるプラチナは、いつ発見されて、どのような歴史を歩んできたのでしょうか。意外に知らない、世界や日本におけるプラチナの歴史についてご紹介します。

                          

古代のプラチナはどう使われていた?

現存する最も古いプラチナ製品といわれているのが、古代エジプト、テーベ王国の遺産である「テーベの小箱」です。現在はルーブル美術館にて展示されているこの化粧箱は、女性神官の墓から出土したものであり、金とプラチナによって装飾されていました。このように、紀元前から人の手によってプラチナが利用されていたことがわかっているのです。また、南アメリカでも、原住民たちが純度の高いプラチナ合金で装身具を作っていたことが判明しており、数々のアクセサリーが出土しています。このように高いプラチナ加工技術を持つ民族がいる一方で、銀加工が中心であったヨーロッパでプラチナが定着したのは、18世紀になってからのことでした。18世紀にスウェーデンの科学者によって、貴金属として分類されたことをきっかけにプラチナへの研究が加速し、精錬や冶金、加工の技術も発展していったのです。

広く世に広めた仕掛け人は「カルティエ」

学術的に研究が重ねられたプラチナですが、これをアクセサリーとして広く世に広めたのが、ハイブランド「カルティエ」の3代目であるルイ・カルティエです。時は19世紀後半?20世紀前半、植物や花、優雅な曲線を組み合わせるアール・ヌーヴォーの最盛期でした。このとき、ルイ・カルティエは誰もアクセサリーとして利用したことのなかったプラチナの加工に取り組み、粘度が高くしなやかな特性を活かした「ガーランド・スタイル」という繊細で華美な装飾スタイルを生み出しました。ガーランド・スタイルで代表的なデザインは、プラチナと小粒ダイヤモンドを組み合わせ、美しい花柄を表現するものです。ガーランド・スタイルの人気により、それまでは産業利用が中心だったプラチナが、王族や貴族から注目されるようになりました。カルティエ以外の宝石商がプラチナ加工技術を会得するまでに30年ほどかかったため、それまではカルティエの独壇場となっていました。


日本にプラチナが広まった背景

日本人がプラチナに出会ったのは、世界の流れからやや遅れて19世紀後半のことでした。遣欧使節がロシアで見かけたのが、始まりといわれています。ジュエリーが日本に渡ってきたのも、同じ時期でした。江戸時代後期にその存在は知れたものの、なかなか日本に持ち込まれなかったプラチナ。明治の半ばにようやく、懐中時計としてプラチナ製品が輸入されたといわれています。この時期、文学作品などで高級な金属としてプラチナがしばしば引き合いに出されるなど、社会的な注目も多く集めていました。そして、プラチナ製品の輸入から数年後、村松万三郎という人物がプラチナ溶解に成功し、その後軍需産業を中心に浸透し、大正以降はアクセサリーとしても利用されていきます。そして現在では、世界においても日本においても、工業製品やアクセサリーに欠かせない金属となっているのです。